【漢方と生薬の歴史】 ~中医薬学から生まれ、日本で進化した“和の医学”~

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茨木_鍼灸東洋医学
漢方の歴史

「漢方って中国から来たんですよね?」

「生薬って薬草?なんとなく自然で優しそうなイメージ…」


――けれど、実際に「漢方」と「中医学」の違いや、

「生薬」がどのように日本で受け継がれてきたのかを知っている人は、案外少ないのではないでしょうか。


 実は、漢方の源流は古代中国の

「中医薬学(ちゅういやくがく)」にあります。


中医薬学とは、

「陰陽五行」「気・血・津液」の理論に基づいて

人の身体を捉え、調和を目指す伝統医学です。


そしてこの医学体系の中で重要な役割を担ったのが、

生薬――つまり薬効を持つ天然の動植物・鉱物由来の素材です。


そして“漢方”という形で日本独自に進化したのです。


中医薬学→和漢方へ

  • 紀元前:中国古代に生まれた「中医薬学」と生薬学の誕生
    約2000年以上前、『黄帝内経』で人体の生理・病理が体系化され、「気・血・津液・五臓六腑」などの理論が確立しました。
    生薬学の古典『神農本草経(しんのうほんぞうきょう』では、薬草365種類が上中下に分類され、今でもよく耳にする甘草・桂皮・附子などが記載されています。
    生薬は単体でも使われ、また複数を組み合わせて処方(方剤)として用いられるようになりました。


  • 日本への伝来と和薬との融合(5~12世紀)
    飛鳥~奈良時代:仏教医学とともに中医薬学が朝鮮半島経由で伝来します。
    日本固有の植物(ドクダミ、ゲンノショウコ、センブリなど)も「和薬(わやく)」として組み込まれます。984年:日本最古の医書『医心方』が編まれ、東洋医学・生薬の知識が体系化します。


  • 江戸時代:漢方の独自進化と“日本流・生薬利用”の確立
    江戸前期:明代医学(『本草綱目』など)の輸入が盛んになる一方、日本では実践的な治療法が重視され始めます。
    そして吉益東洞(1702–1773)が『傷寒論』に基づいた「古方派」を確立します(これについては後ほど説明しますが…この吉益東洞の考え方が、近代的で後の西洋医学に通ずるものがあると評価されるようになります)。
    そして日本各地で薬草園が作られ、生薬の国産化・品種改良も進みました(大和当帰、日向当帰など)。


  • 明治時代:医制改革と漢方の危機
    1874年:過去の記事でもあったように「医制」により、西洋医学のみが国家資格の対象となります。
    生薬や漢方処方は“古い医学”として排除され、鍼灸と同じように多くの知識が途絶えかけます。
    ただし、民間では「家庭薬」「和漢薬」として生薬の知識が細々と受け継がれたおかげでのちに復活を遂げるわけです。


  • 昭和~平成:復興と現代化された“漢方+生薬”の融合昭和30〜40年代:ツムラなどが生薬のエキス製剤を工業化。1976年には健康保険適用が開始されます。
    医師による漢方処方が再び可能となり、大学でも講義が再開されます。
    一方で薬剤師・登録販売者なども、生薬を用いたケアに携わるようになりました。



「漢方薬」という言葉はいつ、どこで生まれたのか?

「漢方薬(かんぽうやく)」という言葉は、
江戸時代後期〜明治初期にかけて生まれたとされます。
その背景には、「蘭方(らんぽう)」との対比があります。


江戸後期、日本にオランダ医学=蘭方医学が伝来し、
西洋医学が普及し始めました。
これに対して、中国伝来の伝統医学を
「漢の医学」=漢方と呼ぶようになったのです。
つまり「漢方」という言葉は、本来“中医学”と同じものを指していたが、
西洋医学(蘭方)との比較語として、日本で作られた造語なのです。
最古の使用例は確定していませんが、
幕末~明治初頭に医師・儒学者の間で定着し、
明治以降「和医学」「和方」など他の呼び方と並びながら、

最終的に「漢方」に集約されていったと考えられています。


つまり中国では漢方薬といった言い方をしませんし、
日本の気候風土や民族性に合わせて独自に進化・発展してきた、ということは
”漢方薬”というものは「日本の薬学である」といってもいいのではないでしょうか。


吉益東洞の思想がもたらした衝撃「万病一毒説」

先ほど名前がでてきた吉益東洞について少し解説します。 吉益東洞は、江戸中期の医家であり、
「古方派漢方」の代表的人物です。
彼は
「あらゆる病は体内に生じた“毒”によって発症する」
とした『万病一毒説』を唱えます。
因みにこの“毒”は、現代の感染症のような概念ではなく、
飲食物の停滞や代謝障害によって体内に生まれた有害な存在です。

また、薬というものも毒であるとし
“毒をもって毒を制す”という視点から、
身体の毒を排除する(=瀉法)手法で様々な病を治していきました。
この考えは当時、李朱医学(中国の金・元時代(12~14世紀)の李杲(りこう)と朱震亨(しゅしんこう)によって提唱された、滋養を重視する医学体系)の考えを継いだ曲直瀬 道三(まなせ どうさん)が
「気を補って体力をつける」
「水を補って熱を冷ます」という考えに基づき、
薬で人間の身体を「補う」ことで体調を良くする、
という説が主流だったため漢方医学会を驚かせました。


しかし、この考えが後の西洋医学に通づるものがあるとされ、評価されるようになります。
今では補法、瀉法を人それぞれの体質を踏まえた見立て(証)によって使い分けるようになっていますが、

このような歴史的背景があったからこそ、明治以降も廃れ切ることなく、今現在まで継承されてきたのかもしれません。


まとめ

簡単にまとめると以下のようになります。

  • 中医学が源流:
    紀元前の中国で体系化。『黄帝内経』『神農本草経』などが基礎となった。
  • 日本での受容と融合:
    和薬文化と合流し、独自の“和の医学”となった。
  • 江戸時代の進化:
    吉益東洞の「万病一毒説」や薬草園の整備がされた。
  • 明治期の後退と昭和の復活:
    医制改革→エキス製剤の登場で再評価された。
  • 現代の漢方薬:
    中医学とは異なる“実証的”な日本独自の処方体系に。


漢方薬のルーツは中医学ですが日本の風土と実践的視点で「進化・再構築」された別体系である、といえるでしょう。

例えば、

  • 中国で「補剤」として重宝された方剤も、日本では気候や体質の違いから重く捉えられ、使用頻度が少ない。


  • 加減法(生薬を減らしたり足したりする処方調整)も、日本では基本処方に対する忠実な使用が主流。


などが挙げられるでしょう。


もし、あなたが――


  • 昔ながらの知恵や自然な治療法に関心がある
  • サプリや薬に頼りすぎず、体質から整えたいと感じている
  • 漢方を“選択肢の一つ”としてみてみたい


そう感じているのなら、是非ご相談ください。

当院は処方はできませんが、

体質に合った漢方薬や、薬膳のように、

お体に合ったお食事を提案できるかもしれません。


――「漢方は古い」なんて、もう言わせません。

現代を生きる私たちだからこそ、

“進化した和の医学”にもう一度、目を向けてみませんか?

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鍼灸 縁庵

住所:大阪府茨木市永代町6-19 近藤ビル402

電話番号:090-3890-4915

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